「もう謙太郎をつれて日本に帰ろう」
パリに引っ越してからの最初の数カ月で、何度そう考えたことだろう。子育てのために仕事が進まない焦燥感が募るにしたがって、日本に帰る計画は具体的になっていった。
一歳半になる我が子・謙太郎が寝ている間にネットで検索して東京近郊にある公団と保育園を地図に書き込んでいった。必ずもって帰らなければならない書類を整理したり、当面必要な生活用品やアパートを決める際の条件などを書き出していった。アパートは、息子を保育園に送ってから職場に着くまでを一時間以内として物件を探した。謙太郎と二人で日本に帰れば、最初は考える暇もないほどめまぐるしい日々になることは予想がついていたので、できるだけ前もって考えておきたかった。
残るは、雇ってくれそうな会社に電話をかけるだけだった。
旅行関係の仕事をしている妻の転勤にしたがって、我が家がパリ左岸に引っ越してきたのは二〇〇四年春のこと。
長く暗い冬を耐えてきたパリの街中のマロニエが、乾いた春風に葉音を鳴らしながら、そろそろ赤と白の小さな花をつけようかというころだった。日本人の感覚からすると本格的な夏までにはまだずいぶんと時間があるように思えるのだが、バカンス好きのパリジャンたちが早くもそわそわとしはじめる時期だった。パリが一年でもっとも華やぐ季節だ。
そんな申し分のない季節とは裏腹に、子どもの世話であけくれる日々は、私の精神を窒息寸前にまで追い込んでいた。
フリーのジャーナリストである私は、日本を出発する前、爆発的な勢いで伸びているネット通販会社の取材を終えており、その会社が決算を発表する年明けをめどに本を出そうと出版社と約束してきた。それまでフランスとは縁もゆかりもなかったけれど、原稿を書くだけならば、場所はどこでもたいして違いはないだろうと思って引っ越してきた。四〇歳を手前にして、小さな息子と一緒に家族で見知らぬ国ですごすのも一興だろうぐらいに、いたってノンキに考えていた。
しかし、それから本を書き終えるまでの間、子育てと原稿用紙の板ばさみになり、私は世の中を呪い、日本の社会や会社の仕組みを恨み、自ら会社を辞めたことを悔やみ、結婚した自分を罵った。ありとあらゆる負の感情が体中を駆け巡っており、だれかが針でつつけばいつでも爆発して、どこかに飛んでいってしまいそうな状態だった。
パリに来て最大の誤算は、保育園が見つからなかったことだ。
パリに着くとすぐに区役所で保育園のリストをもらい、謙太郎を乳母車に乗せて、保育園を探して歩いた。最初に行った保育園では、園長だと名乗る女性がインターフォン越しに、「私は英語がしゃべれないから、通訳をつれてくるように」というばかりで、顔を見せようともしなかった。(よくフランス人は、英語がわかっていてもわからないふりをすることがあるといわれるが、彼女を含めた四〇代、五〇代以上のフランス人は、総じて英語が苦手だった。)
多少英語が通じるところに行っても、長いウェイティングリストが出てくるばかりで、新学期がはじまる九月になっても入るのは無理だろう、といわれた。地区の保育園をすべてまわったが、空きは一つもなかった。あとになって、三歳以下の子どもでパリの保育園に入ることができるのは全体の一〇%ほどで、妊娠すると同時に申し込んだとしても、入れるかどうかわからないのだ、と知った。
ようやく半日だけ見てくれる幼稚園が見つかるが、預けるためには予防接種の履歴が必要だった。しかしそれを証明する母子手帳は、船便で送ったため、到着まで二カ月待たなければならなかった。
子どもと一緒にすごしていると、すべてが子ども優先のスケジュールとなる。
このころの一日は、午前中、近くのリュクサンブール公園で遊び、お昼を食べて昼寝。おやつを食べたら、また公園に行って夕食まで遊ぶ。風呂に入って眠るのは九時前後という毎日だった。謙太郎と二人で風呂に入り、Tシャツの跡を見ると二人とも同じだけ日焼けしているのがわかった。
謙太郎が遊んでいる間に、せめて仕事の資料でも読もうとするが、しかし何かを読もうとするたびに、「なにしてんの」とばかりにやってきて邪魔をしにくる。そんなことを繰り返すうちに、この年頃の子どもにとっては、身近にいる人間の注意や愛情を十分に受けていることが必要なのだとわかった。子どもにとって、きちんとした食事や充分な睡眠がすこやかな成長に不可欠であるのと同じように、大人の注目や時間もまた子どもの大切な〝栄養分〟なのだ。
子育てには苦しいことばかりではなく、楽しみや発見も多い。
楽しみの一つは、血を分けたわが子の成長に〝神の奇跡〟をみいだすことではないだろうか。生まれてから数年間の子どもの成長は〝神業〟としかいいようがなく、あたかも脳の配線がバチバチと音をたててつながっていくのが聞こえるようだ。
生まれたばかりでまだ視線の定まらない赤ちゃんが、すぐに指の動きを目で追うようになる。ある日突然、寝返りをうてるようになると、起き上がりこぼしのように、床の上を転がりはじめる。ハイハイから歩くようになり、じきに走りだし、友達と遊びはじめる。
身体能力の成長は、謙太郎が五歳近くになった今でもつづいている。それまでサクランボのタネをだすことができず、タネまで飲み込んでいたのが、いつの間にか気がつくと、大人と同じようにタネを出せるようになっていた。
精神面の成長も同じだ。まだ言葉が充分にでないときでも、その反応を観察していると、言葉で表現できる何倍ものことを理解しているのがわかる。
謙太郎が二歳になったころに、街中にパンダを写した自然保護団体のポスターがあった。
「謙太郎はまだパンダを見たことがないね。中国に住んでいるクマだよ」
と話しかけると、
「ミミ!」と一言だけいう。
しばらく考えてから、ネズミのミミが主人公の絵本に、ミミがパンダのぬいぐるみを持ってベッドに入るところがあったのを思い出した。
朝ごはんを食べているとき、謙太郎がパンを持ったままイスから滑り落ちたことがあった。起き上がるやいなや、本棚まで走っていって、「くまのコールテンくん」を持ってきた。絵本を広げて、コールテン君がこけたのと同じだという。
言葉が頭で理解する世界に追いつこうとする三、四歳のころ、子どもの表現が巧まずして詩的に響くことがある。
ろうそくを見て「火がダンスしているよ」、プリンターで印刷をしていると「お口からいっぱい紙がでてくるね」、本にアンダーラインを引きながら読んでいると、「パパー、どうして本に線路しているの」……。
五歳近くになると、話の展開が急に知的になってくる。
謙太郎と一緒にいるときに公衆電話を探していると、
「携帯もってないの」と謙太郎が聞く。
「お父さんは携帯、持ってないね」
「目覚ましがあるじゃない」
わが家では、日本で使っていた昔の携帯電話を目覚まし時計代わりに使っているのだ。
「あれは日本で買ったから、フランスでは使えないね」
「それなら悠ちゃんにはかかるの?」
とすぐに日本にいる親戚の名前をあげた。
子育てを通じて、この〝神の奇跡〟の一部になることは、それまでの勉強やスポーツ、仕事で手に入れた充実感とは異なる達成感を手にすることになる。
子育てによるもう一つの特典は、自分の視野が広がることだ。
それは妻に子どもが産まれるとわかった瞬間から、世の中には出産や育児に関する情報がこれほどまでにあふれていたのかと、気づくところからはじまっていた。
それまでの私にとって子どもとは、うるさく、厄介で、コントロール不可能なものであり、できるだけかかわりあいを避けてきた。電車やレストランで子ども連れが近くにいると、心の中で顔をしかめたし、国際線のフライトで子ども連れと隣り合わせになるのがわかったときは、こっそりと席を替わってもらったこともある。
しかしわが子とすごす時間が増えれば増えるほど、子どもが愛すべき存在であるのがわかってくる。それは、友達を作ったり、異性を好きになったり、先生を敬ったりするのとはまったく違う感情が自分の中に隠れていたことを見つけることだ。
たとえば、旅先で散々探し回って見つけた約束のプレゼントを、謙太郎がさも当然のようにして受け取り、たいして遊びもせずにオモチャ箱にしまったときでも、次はどんなお土産を買ってこようかな、と考えるような気持ちのことである。惜しみなく与える愛の形があるとするのなら、この親子の関係においてのみ可能なのではないだろうか。
わが子に対する愛情は、私の子ども全般に対する見方も大きく変えた。母親や父親に抱かれてニコニコしている機嫌のいい赤ちゃんを見たときはもちろん、乳母車に乗るのを全力で阻もうと泣き叫ぶ子どもを見ても、そのころの謙太郎と重ね合わせ、自然と暖かい気持ちがあふれてくるようになった。
そうした感情は一体どこからやってくるのだろうと考えたとき、それは自分が幼いころ両親をはじめ親戚や学校の先生などから同じように愛情を注がれて成長してきたからだということに気づく。いまどれだけ分別くさい顔でふるまっていても、生まれたときは私もまた泣き叫び、駄々をこね、さんざん回りに迷惑をかけて大きくなってきたことに気づく。子どもが多少の迷惑をかけるのは、お互い様なのだという気持ちになってくる。
報われることも多い子育てではあるが、しかしすべてはバランスの問題だ。
自分の仕事と子育てのバランス。子育ての作業を分かち合うべき配偶者との負担のバランス。そして、そのバランスが大きく崩れると、楽しいはずの子育てが苦痛に変わってしまう。
パリに引っ越してからの妻は、朝出て行ったきり、夜は謙太郎が寝たあとでないと帰ってこなかった。近くに手を貸してくれる親類などいるはずもない。育児と家事は、私一人にのしかかってきた。
二歳にもならない子どもの場合、言葉も片言で、自分でできることもほんのわずかだ。パンツを一人ではくどころか、まだオムツが取れていない。だれかがそばにいて世話をしなければならない。しかしそうやって子どもとすごしていると、仕事の時間はほとんど残らない。
孤立無援の中で、時間だけがすぎていった。「身動きがとれない」という思いを抱えたままで、日一日と出版社との約束の時間が迫ってきた。それが身を焦がすようなあせりにつながっていった。私にはどうしても時間が必要だった。
「時間がない」
というのが、このころ口癖だった。しかしこの私の口にする「時間がない」という簡単にみえる言葉が、そのころの妻にはほとんど伝わらなかった。
(次回へつづく)