なぜ子どもが減っているのか。なぜ若者は、産むのをためらうのか。
子育てに希望を見いだしにくい現代の日本社会には、「二つの格差」が存在する。

妻の赴任によって、パリでの子育てを経験することになったジャーナリストである著者。
25年ぶりに出生率が2.0の大台まで回復したフランスは、なぜ子どもが生みやすい社会になったのか。
それを読み解くこのルポは、少子化問題だけにとどまらず、日本社会全体が抱える問題の深部へと潜行していく。
(配信:情報センター出版局)
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第2回
 結婚したのは、私が三〇代半ばで、妻が二〇代後半の時だった。そのころ私は経済関係の業界紙で働いていた。結婚後にフリーとなり、フランスに渡る前に最初の本を出版した。
 謙太郎が生まれたのは二〇〇二年の秋。妻は一年間の育児休暇をとったあとで職場に復帰した。謙太郎は一歳になってからパリにくるまでの半年の間、地元の保育園に通っていた。
 私が会社を辞めたことで我が家に起こった最大の変化は、家庭内の財政における立場がすっかり逆転したことだった。フリーになる前は、一冊目の本が出るころには、サラリーマン並みには稼げるだろうと思っていたが、その見通しはおおいに甘かった。フリーで生活することがこんなに大変だとは思っていなかった。かといって今さら後戻りもできず、少しずつ前進をつづけ、二冊目の本を書こうというところだった。
 パリの保育園に空きはないけれど、仕事はしなければならない。手っ取り早い解決策は、ベビーシッターを頼むことだった。しかし妻はこれに断固として反対した。
「土曜と日曜は私が見るから、その間に仕事をすればいい」
というのだ。
 たしかに丸二日あれば仕事は進む。しかしパリに来たばかりのころ、フランス語に不慣れということもあり、妻は週五〇時間以上働いていた。平日それだけ働いて、土日に子どもの面倒をみるのはむりだ、と私はいったが、
「私が見るから」
 の一点張りだった。
ベビーシッター代は私が払うといっても、話の流れが変わることはなかった。しかし、やはり妻に週末、子どもの面倒をみるだけのエネルギーは残っていなかった。結局、原稿はとどこおったまま、時間だけがすぎていった。このとき、ベビーシッターを頼まないと決めたことは、私たち夫婦の間に、深いワダチとなって残った。このワダチは、その後も私の意識に上ってきたり消えたりを繰り返すのだが、しかし妻にはそれが存在していることにも気づかないといった性質のものだった。

夫婦間での価値観相違

 妻がパリにきてから急に締まり屋になったというわけではない。もともと、二人の金銭感覚は大きく違っていた。私は多少お金を払ってでも余裕を持ちたいと思う方で、妻は出費は一円でも少ない方がいいというタイプだった。
 たとえば、二人の違いはこんなときに鮮明になった。
結婚後に、部屋数の関係で同じアパート内を引っ越したときの話だ。私が「一日で引っ越しが終わるかどうかわからないので、二日みておこうという」というと、妻は「日割り計算の家賃が二日分発生するのはもったいない」という。
 また千葉の山奥にある景勝地まで紅葉を見に行った帰りのこと。ふもとの駅に戻るのにはバスとタクシーがあった。電車は一日、四、五本しか走っていないというローカル線なので、電車に間に合うようにタクシーに乗ろうと私はいうが、妻はバスに乗るという。そして間に合わなければ、次の電車を待てばいいと。しかし次の電車といっても、二時間、三時間も後のことであり、ひなびた駅前には喫茶店すらない。
 お互いに充分な収入があるときは、その違いもさほど問題にならなかった。最後は、「おれが払うからいいよ」ということで話は終わった。
 彼女の考え方は明快だった。お金がかかるか、かからないかの一点で判断する。それに対して私は、お金の多寡を天秤の右側におくなら、余裕の有無を左側において判断する。たとえば、同じ牛乳一本を買うのならもちろん少しでも安いほうがいい。しかしその差が、せいぜい二、三円のことならば、入ったスーパーで牛乳を買う。
 しかし彼女の場合、ほっておけば、何軒もスーパーをまわりもっとも安い牛乳を買ってくる。一番安い牛乳を買ってきたという事実が、彼女に深い満足を与えるようだった。私にすれば、そこには時間という概念がすっぽりと抜け落ちているように見えるのだが、しかし金銭感覚というのはそれまでの人生経験の結晶のようなものであり、簡単に変えることはできない。
 妻にとって、ベビーシッターにお金を払って時間を買うということは、大袈裟にいえば、これまでの生き方を否定するような行為であり、耐えられないことだったのだろう。事実、謙太郎が学校に通うようになって(フランスの子どもは三歳から学校に通う)、私の取材のために何度か放課後のベビーシッターを頼んだときも、はなからむりだとわかっているようなときでさえ、
 「その日は私が早く帰ってくるから」
 といわずにはおれないのだ。
 私の中では、ベビーシッターに払うお金は、受け取る原稿料の何分の一にしかすぎず、充分に採算があうという計算が成り立つ。生活のリズムをさほど崩すことなく、仕事ができるのなら安い出費だとさえ思う。
 しかし妻にしてみれば、だれがベビーシッター代を払っているのかは関係がないようだった。自分が働いている同じときに、ベビーシッター代が発生するということは、傷口から血が流れ出すのをほっておくようなものであり、私がなんとかしなければならないと感じるようだった。それはもう理屈を超えている。
 この二人の金銭感覚の違いを多少の余裕を持って考えられるようになったのは、ずいぶん時間がたってからのことだ。フランスに来たころはただ、何度話し合っても私の焦燥感が伝わらないことからくる無力感で、視界が溶暗(フェードアウト)していくようだった。私はこのときほど会社を辞めたことを後悔したことはなかった。
 当時の妻の態度や言葉から受け取ったメッセージを一言でいうなら、
 「私ががんばって働くから、あなたはうちで子どもの面倒をみていればいいの」
 というものだった。つまり、私の仕事よりも妻の仕事の方が大切だというメッセージだった。
 しかし、そんなのはまっぴらごめんである。
 子育てや家事がいやだというのではない。バランスの問題だ。自分にとっての育児と仕事のバランスであり、妻との分担のバランスである。妻は外で働くだけで、育児と家事はすべて私がやるというのなら、そんな話はご免こうむる。
 文章を書くということは私の大切な一部であり、私が私である理由の一つである。それをすべて捨ててパリで子育てだけをやるというのなら、謙太郎と一緒に日本に帰って以前のように会社勤めをする方を選ぶ。これまでの流れからすると後戻りとなり、本を書くこともあきらめることになる。しかも謙太郎と一緒に帰れば、働く時間も大きく制限される。
それでもいい、日本に帰ろう。
そう思ったとき、突然、一〇年近く前のことを思い出した。

 大学時代の友人から久しぶりに電話がかかってきた。相談があるという。
 その友人は大学を卒業してから二、三年で、スキーという共通の趣味をもつ女性と結婚した。すぐに男の子が生まれ、東京近郊にマンションを買った。はた目からは、仕事も結婚も順風満帆のように見えたが、男の子が小学校に上がるころ、離婚話が持ち上がった。
 「何回も話し合ったんだけれど、彼女の意志は固くって変えようがない。今の問題は、どっちが息子を引き取るかなんだ」
 電話口から聞こえてくる声には、その憔悴した顔が目に浮かぶほど力がなかった。
 友人の妻は、結婚と同時に仕事を辞めて専業主婦になって、数年がたっているはずだった。友人に理由(わけ)を尋ねると、
 「子育てが一番大変だったときに、おれが何も手伝わなかったのが原因だっていうんだけれど……」
 しかし私は、当時、子どもができたことを喜んだ友人が、がむしゃらに働いたことを覚えていた。一時は体調を崩すまで働いて、子どもの面倒をみる時間などなかったはずだ。
 彼の妻のいう理由が、私にはまったく理解できなかった。「子ども云々というのは、離婚の理由になってないじゃないか」と思ったほどそのころの私は愚か者であった。
 当時、小さな新聞社で働いていた私には数人の部下がおり、「仕事は真剣勝負だ」とばかりに、連日一〇時間以上働き、必要とあらば土曜も日曜も働いた。取材を終えて五時ごろに会社に戻るときに、すでに家路につくサラリーマンとすれ違うと、「そんなに早く帰って仕事になるのかよ」と心の中で毒つきながら、がむしゃらに働く自分の姿に酔っていたようなところがあった。結婚したばかりだったが、まだ謙太郎が生まれる前で、私も妻も好きなだけ働くことができた。
 新聞社で働く間、定時に帰ったことはなく、年休とも無縁だった。また、無意識のうちに周りにも同じように働くことを求めていた。当時の手帳を見れば、仲間一人ひとりの給与の額が細かく書いてある。各自にいい仕事を割り振って、彼らの給与を増やすことが自分の役割の一つだと考えていた。しかし、彼らがどれくらい年休を消化しているのか、家族とどれだけゆっくりとすごしているのかは、まったく気にしていなかった。
 部下と一緒に海外取材に行くことになったとき、彼が取材の後に年休をつけてプライベートな旅行をしたいと言うのを聞いて、苦々しく思ったのを覚えている。海外取材というチャンスを手にしながら、そんな遊びをくっつけるようでは、周りから反発を買うだけだ。次のチャンスにつなげるためにも、滅私の姿勢が必要なのに、と。
 そんな私にとって、子育てが大変なときに手伝ってくれなかったので離婚したい、というのは文字通り女々しい泣き言でしかなかった。友人が、男の子を引き取ることで離婚話が決着すると、彼女の言葉は理解できないままで記憶の片隅に追いやった。
 もしそのころ、我が家に謙太郎が生まれていたなら、おそらく妻が家庭に入ることになっただろう(夫婦ともに毎日一〇時間も働きながら子どもを育てることは不可能に近い)。そうなっていたら私は一生、彼女の言葉の意味を理解できなかったかもしれない。
 それが彼女と似たような立場に立たされて、はじめてその意味がわかった。今の私とそっくりじゃないか。
 それから友人の結婚式のことを思い起こしてみた。友人の妻は、男女雇用機会均等法後に大学を卒業して、大手メーカーで総合職として働いていた。学生時代の友人や職場の友人のスピーチはどれも、有能な彼女が結婚のために仕事を辞めて家庭におさまるのはもったいないと嘆くものだった。結婚式にありがちなその日の主役の能力に下駄をはかせるというご祝儀的な感じはなく、聞きようによっては、目の前の結婚に反対しているともとれる内容で、めでたい席のスピーチとしては多少の違和感を覚えたほどだった。しかし自ら複雑な家庭に育ったという彼女は、仕事よりも専業主婦となることで家庭を優先させることを選んだのだ、という話を結婚式に出た別の友人から聞いた。
 その優秀であったという彼女が家庭に入り、育児と家事だけにあけくれた数年間とは、いったいどのような日々であっただろう。自分で収入を得る道を手放し、まだ言葉も通じない我が子とマンションの一室で向かい合う日々をどんな思いですごしたのだろう。
 日本の女性は結婚することで、さらには子どもを産むことで、それまでとは一八〇度違う生活を余儀なくされる。友達との会話も、上司と飲みに行くこともなくなり、化粧をすることもおしゃれな服を着ることとも無縁の毎日がつづく。
 子どもが小さいうちは、食事に出かけることもままならず、映画に行くなど夢のまた夢。それまでの人生では、自分だけが人生の主役であり、何でも自分の思うようにできたことがウソのように思えてくる。仕事を辞めず、子どもを産まなかった自分の姿を何度も想像したことだろう。
 世間から隔離され、子どもと二人っきりで離れ小島に流されたような孤独感を感じて、次第に自分がだれなのかもわからなくなるような心細さに襲われる。頼りにしていた夫は、仕事に明け暮れて充分に話をするゆとりもない。
 焦燥感や孤独感が彼女の中に積もり積もって、いつしか飽和状態を超えて離婚を決意したのだろう。
 そんな子育て中の女性に追い討ちをかけるのは、母親となった女性が子どものために尽くすのは当然だ、という考えが根強いことだ。
 「母親なんだから、そんなのは当然じゃない」
 という声が社会に充満しているため、母親が子育ての苦しさを口にするのもはばかられる。世間は、多少の不自由は〝母性本能〟で浄化し、濾過できるはずだと信じているようだ。彼女の離婚理由を、かつての私が「女々しい」と感じたように、世間は、母子が向かい合ってすごすことで母親が抱く心の飢餓感をいまだに十分に理解しようとはしていない。
 子育ての持つ残酷な一面を野球にたとえるなら、二〇代の伸び盛りのプロ野球選手をつかまえて、ある日突然、少年野球のコーチに専念しろと言い渡すようなものだ。「子どもたちが一人前になるまでプロとしてプレーすることは相成らん」というのに等しい。たとえ、後進を育てるのは現役でプレーするのと同じぐらいに重要だと説明されたとしても、自分の能力を伸ばすことができると思っている選手はとうてい納得することはできない。
 かりに、昼間はプロの選手として活躍して、夕方だけコーチになるというのならば精神的な折り合いがつくように、女性も仕事という生きがいを持ちながら、同時に子育てもできるような条件が整っているのなら話は違ってくるのだが、日本の場合は依然として女性に仕事か子育てかの二者択一を迫る冷酷な社会なのだ。
(次回へつづく)
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by webmag-f | 2007-08-15 09:44 | 第2回
第1回
 「もう謙太郎をつれて日本に帰ろう」
 パリに引っ越してからの最初の数カ月で、何度そう考えたことだろう。子育てのために仕事が進まない焦燥感が募るにしたがって、日本に帰る計画は具体的になっていった。
 一歳半になる我が子・謙太郎が寝ている間にネットで検索して東京近郊にある公団と保育園を地図に書き込んでいった。必ずもって帰らなければならない書類を整理したり、当面必要な生活用品やアパートを決める際の条件などを書き出していった。アパートは、息子を保育園に送ってから職場に着くまでを一時間以内として物件を探した。謙太郎と二人で日本に帰れば、最初は考える暇もないほどめまぐるしい日々になることは予想がついていたので、できるだけ前もって考えておきたかった。
 残るは、雇ってくれそうな会社に電話をかけるだけだった。
 旅行関係の仕事をしている妻の転勤にしたがって、我が家がパリ左岸に引っ越してきたのは二〇〇四年春のこと。
 長く暗い冬を耐えてきたパリの街中のマロニエが、乾いた春風に葉音を鳴らしながら、そろそろ赤と白の小さな花をつけようかというころだった。日本人の感覚からすると本格的な夏までにはまだずいぶんと時間があるように思えるのだが、バカンス好きのパリジャンたちが早くもそわそわとしはじめる時期だった。パリが一年でもっとも華やぐ季節だ。
 そんな申し分のない季節とは裏腹に、子どもの世話であけくれる日々は、私の精神を窒息寸前にまで追い込んでいた。
 フリーのジャーナリストである私は、日本を出発する前、爆発的な勢いで伸びているネット通販会社の取材を終えており、その会社が決算を発表する年明けをめどに本を出そうと出版社と約束してきた。それまでフランスとは縁もゆかりもなかったけれど、原稿を書くだけならば、場所はどこでもたいして違いはないだろうと思って引っ越してきた。四〇歳を手前にして、小さな息子と一緒に家族で見知らぬ国ですごすのも一興だろうぐらいに、いたってノンキに考えていた。
 しかし、それから本を書き終えるまでの間、子育てと原稿用紙の板ばさみになり、私は世の中を呪い、日本の社会や会社の仕組みを恨み、自ら会社を辞めたことを悔やみ、結婚した自分を罵った。ありとあらゆる負の感情が体中を駆け巡っており、だれかが針でつつけばいつでも爆発して、どこかに飛んでいってしまいそうな状態だった。

 パリに来て最大の誤算は、保育園が見つからなかったことだ。
 パリに着くとすぐに区役所で保育園のリストをもらい、謙太郎を乳母車に乗せて、保育園を探して歩いた。最初に行った保育園では、園長だと名乗る女性がインターフォン越しに、「私は英語がしゃべれないから、通訳をつれてくるように」というばかりで、顔を見せようともしなかった。(よくフランス人は、英語がわかっていてもわからないふりをすることがあるといわれるが、彼女を含めた四〇代、五〇代以上のフランス人は、総じて英語が苦手だった。)
 多少英語が通じるところに行っても、長いウェイティングリストが出てくるばかりで、新学期がはじまる九月になっても入るのは無理だろう、といわれた。地区の保育園をすべてまわったが、空きは一つもなかった。あとになって、三歳以下の子どもでパリの保育園に入ることができるのは全体の一〇%ほどで、妊娠すると同時に申し込んだとしても、入れるかどうかわからないのだ、と知った。
 ようやく半日だけ見てくれる幼稚園が見つかるが、預けるためには予防接種の履歴が必要だった。しかしそれを証明する母子手帳は、船便で送ったため、到着まで二カ月待たなければならなかった。
 子どもと一緒にすごしていると、すべてが子ども優先のスケジュールとなる。
 このころの一日は、午前中、近くのリュクサンブール公園で遊び、お昼を食べて昼寝。おやつを食べたら、また公園に行って夕食まで遊ぶ。風呂に入って眠るのは九時前後という毎日だった。謙太郎と二人で風呂に入り、Tシャツの跡を見ると二人とも同じだけ日焼けしているのがわかった。
 謙太郎が遊んでいる間に、せめて仕事の資料でも読もうとするが、しかし何かを読もうとするたびに、「なにしてんの」とばかりにやってきて邪魔をしにくる。そんなことを繰り返すうちに、この年頃の子どもにとっては、身近にいる人間の注意や愛情を十分に受けていることが必要なのだとわかった。子どもにとって、きちんとした食事や充分な睡眠がすこやかな成長に不可欠であるのと同じように、大人の注目や時間もまた子どもの大切な〝栄養分〟なのだ。
 子育てには苦しいことばかりではなく、楽しみや発見も多い。
 楽しみの一つは、血を分けたわが子の成長に〝神の奇跡〟をみいだすことではないだろうか。生まれてから数年間の子どもの成長は〝神業〟としかいいようがなく、あたかも脳の配線がバチバチと音をたててつながっていくのが聞こえるようだ。
 生まれたばかりでまだ視線の定まらない赤ちゃんが、すぐに指の動きを目で追うようになる。ある日突然、寝返りをうてるようになると、起き上がりこぼしのように、床の上を転がりはじめる。ハイハイから歩くようになり、じきに走りだし、友達と遊びはじめる。
 身体能力の成長は、謙太郎が五歳近くになった今でもつづいている。それまでサクランボのタネをだすことができず、タネまで飲み込んでいたのが、いつの間にか気がつくと、大人と同じようにタネを出せるようになっていた。
 精神面の成長も同じだ。まだ言葉が充分にでないときでも、その反応を観察していると、言葉で表現できる何倍ものことを理解しているのがわかる。
 謙太郎が二歳になったころに、街中にパンダを写した自然保護団体のポスターがあった。
「謙太郎はまだパンダを見たことがないね。中国に住んでいるクマだよ」
 と話しかけると、
「ミミ!」と一言だけいう。
 しばらく考えてから、ネズミのミミが主人公の絵本に、ミミがパンダのぬいぐるみを持ってベッドに入るところがあったのを思い出した。
 朝ごはんを食べているとき、謙太郎がパンを持ったままイスから滑り落ちたことがあった。起き上がるやいなや、本棚まで走っていって、「くまのコールテンくん」を持ってきた。絵本を広げて、コールテン君がこけたのと同じだという。
 言葉が頭で理解する世界に追いつこうとする三、四歳のころ、子どもの表現が巧まずして詩的に響くことがある。
 ろうそくを見て「火がダンスしているよ」、プリンターで印刷をしていると「お口からいっぱい紙がでてくるね」、本にアンダーラインを引きながら読んでいると、「パパー、どうして本に線路しているの」……。
 五歳近くになると、話の展開が急に知的になってくる。
 謙太郎と一緒にいるときに公衆電話を探していると、
「携帯もってないの」と謙太郎が聞く。
「お父さんは携帯、持ってないね」
「目覚ましがあるじゃない」
 わが家では、日本で使っていた昔の携帯電話を目覚まし時計代わりに使っているのだ。
「あれは日本で買ったから、フランスでは使えないね」
「それなら悠ちゃんにはかかるの?」
 とすぐに日本にいる親戚の名前をあげた。
 子育てを通じて、この〝神の奇跡〟の一部になることは、それまでの勉強やスポーツ、仕事で手に入れた充実感とは異なる達成感を手にすることになる。
 子育てによるもう一つの特典は、自分の視野が広がることだ。
 それは妻に子どもが産まれるとわかった瞬間から、世の中には出産や育児に関する情報がこれほどまでにあふれていたのかと、気づくところからはじまっていた。
 それまでの私にとって子どもとは、うるさく、厄介で、コントロール不可能なものであり、できるだけかかわりあいを避けてきた。電車やレストランで子ども連れが近くにいると、心の中で顔をしかめたし、国際線のフライトで子ども連れと隣り合わせになるのがわかったときは、こっそりと席を替わってもらったこともある。
 しかしわが子とすごす時間が増えれば増えるほど、子どもが愛すべき存在であるのがわかってくる。それは、友達を作ったり、異性を好きになったり、先生を敬ったりするのとはまったく違う感情が自分の中に隠れていたことを見つけることだ。
 たとえば、旅先で散々探し回って見つけた約束のプレゼントを、謙太郎がさも当然のようにして受け取り、たいして遊びもせずにオモチャ箱にしまったときでも、次はどんなお土産を買ってこようかな、と考えるような気持ちのことである。惜しみなく与える愛の形があるとするのなら、この親子の関係においてのみ可能なのではないだろうか。
 わが子に対する愛情は、私の子ども全般に対する見方も大きく変えた。母親や父親に抱かれてニコニコしている機嫌のいい赤ちゃんを見たときはもちろん、乳母車に乗るのを全力で阻もうと泣き叫ぶ子どもを見ても、そのころの謙太郎と重ね合わせ、自然と暖かい気持ちがあふれてくるようになった。
 そうした感情は一体どこからやってくるのだろうと考えたとき、それは自分が幼いころ両親をはじめ親戚や学校の先生などから同じように愛情を注がれて成長してきたからだということに気づく。いまどれだけ分別くさい顔でふるまっていても、生まれたときは私もまた泣き叫び、駄々をこね、さんざん回りに迷惑をかけて大きくなってきたことに気づく。子どもが多少の迷惑をかけるのは、お互い様なのだという気持ちになってくる。

 報われることも多い子育てではあるが、しかしすべてはバランスの問題だ。
 自分の仕事と子育てのバランス。子育ての作業を分かち合うべき配偶者との負担のバランス。そして、そのバランスが大きく崩れると、楽しいはずの子育てが苦痛に変わってしまう。
 パリに引っ越してからの妻は、朝出て行ったきり、夜は謙太郎が寝たあとでないと帰ってこなかった。近くに手を貸してくれる親類などいるはずもない。育児と家事は、私一人にのしかかってきた。
 二歳にもならない子どもの場合、言葉も片言で、自分でできることもほんのわずかだ。パンツを一人ではくどころか、まだオムツが取れていない。だれかがそばにいて世話をしなければならない。しかしそうやって子どもとすごしていると、仕事の時間はほとんど残らない。
 孤立無援の中で、時間だけがすぎていった。「身動きがとれない」という思いを抱えたままで、日一日と出版社との約束の時間が迫ってきた。それが身を焦がすようなあせりにつながっていった。私にはどうしても時間が必要だった。
「時間がない」
 というのが、このころ口癖だった。しかしこの私の口にする「時間がない」という簡単にみえる言葉が、そのころの妻にはほとんど伝わらなかった。
(次回へつづく)
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by webmag-f | 2007-08-03 11:19 | 第1回