二つの格差が子どもを減らす ―パリ子育て体験から見えてきた日本―

第3回 負け犬たちへの共感

第3回
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 パリへの引っ越しから二カ月後に、船便で母子手帳が届き、ようやく謙太郎は地元の幼稚園に通いはじめた。九月の新学期には保育園の空きはなかったが、秋になってマロニエの実が落ち、さらにすべての葉が落ちた一一月になって、保育園の空きが見つかった。  市役所から謙太郎が保育園に入れるという手紙を受け取ったときは、ひざまずいて天に感謝したい気持ちになった。本がはじめの約束より数カ月遅れながらも書き終わったのは、ひとえに保育園が見つかったからである。もし保育園が見つからなかったとしたら、本を書くのを諦めていたことも充分に考えられる。  なぜ私はこの時期、日本に帰ろうと思いながらも思いとどまったのか。  今にして思えば、一歳半という謙太郎の年齢が一番大きな理由だった。  もし謙太郎が生まれる前で、妻が私の仕事にこれだけ非協力的であるのがわかったら、私は一も二もなく日本に帰っていただろう。しかし二歳になる前の子どもをつれて、日本に帰るには相当の覚悟が必要だった。仕事とアパートを見つけ、保育園を探したとしても、この年頃の子どもは毎月のように病気にかかる。謙太郎が一週間病気にかかったら、仕事はどうすればいいのか。私が病気になったらどうなるのか……。  昨年、『幸福のちから』というアメリカ映画をみた。失敗と不運が重なり一文無しになったウィル・スミス演じる黒人のセールスマンが、妻に愛想をつかされながらも、一人息子を引き取る。二人でホームレスすれすれの状態から、億万長者にのし上がるという典型的なアメリカンドリームを描いた実話に基づいた映画だった。  その映画が二一世紀的であったのは男が息子を引き取りながらも成功した点にあった。スミス演じるセールスマンにとって、息子が四歳であったことは大きな幸いだった。映画をみながら、私は彼の息子がもし一歳だったらどうなっていただろう、と考えずにはおられなかったし、もしわが家がフランスにきたとき、謙太郎が四歳だったらどうなっていただろうと、考えずにはおられなかった。  子どもを育てながら仕事をする上で一番辛いことは、時間がつねに〝引き算〟になることだった。謙太郎がカゼをひいた、ケガをした、保育園がストで休みになった(フランスは保育園の先生までもがストをするスト大国である)……。そのたびに、仕事の時間が減ることはあっても、増えることはない。つまり先が読めないのだ。  たえず時間にしばられながら原稿を書いているとき、仕事を成し遂げたという充実感よりも、自分が磨り減っていくように感じた。謙太郎が生まれる前の業界紙時代は、好きなだけ働いて、一週間が終わると、爽快感とともに来週も働くぞという意欲がどこからともなくわいてきた。  しかし仕事が二の次という状態では、やる気を失わないようにすることが肝心だった。目の前にある原稿用紙を投げ捨ててしまえば、どれだけ楽になるだろうと何度思ったことだろう。パリにいながら、エッフェル塔やルーブル美術館に足を向けることもなく、モグラのように家にとじこもり、ただ仕事をつづけた。  どうにか本の出版にはこぎつけたものの、仕事がこんなにしんどいと思ったことはなかった。本を書き終わっても、深い疲労感のため、次のテーマに取りかかるのに逃げ腰になっている自分に気がついた。仕事に腰が引けるなんて、はじめて経験する感情だった。  原稿を書きながら気になりはじめたのは、私と似たような境遇にある日本の働く女性と子育ての問題についてだった。それまで一〇年以上も耳にしながら、たいした興味も抱かなかった少子化の問題が気になりだした。  日本の出生率の低下に一向に歯止めがかからないのは、仕事か子育てかという二者択一を迫られた女性たちが、二人目以降を産むのをためらう姿があるように思えてきた。というよりも、私のように実際に一人目を育ててみるまでもなく、はなから出産・子育てにまつわる大変さと不公平を見抜いている女性たちは、結婚という伝統的な生き方に見切りをつけて、一人で自由に生きることを選んでいる。それが現在の日本の少子化につながっているのではないか。  我が家がパリに移ってくるころベストセラーとなった『負け犬の遠吠え』には、結婚もせず、子どもも産まず、自らのキャリアに邁進し、日々の生活を満喫している女性たちの心理が描かれている。  日本の少子化の原因は、女性が高学歴となり、「晩婚化」「晩産化」となった結果だといわれるが、〝負け犬〟は、一生子どもを産まないというのだから、少子化の問題が凝縮した生き方だともいえる。  負け犬とは、「未婚、子ナシ、三十台以上の女性」を指し、「いわゆる普通の家庭というものを築いていない」女性たちである。そう定義する作者自身も負け犬ではあるのだが、その呼び名とは裏腹に、負け犬の生態はきわめて前向きだ。  負け犬とは、マスコミや法曹界といった華やかな職場の第一線で働く女性たちであり、高学歴で高収入、なおかつ見た目も悪くないため、若いときから食事の相手には困らなかったような女性たちだ。その上、きちんとしたマンションのこぎれいな部屋に住み、インテリアの趣味も悪くない。たしかに老い先を血のつながった我が子に見てもらえないという不安はあるけれども、「人間、孤独で死なない」と言い切る潔さも持っている。  作者が自らを〝負け犬〟と称するのは、結婚せず、子どもがいないだけで負け犬と思いたいようなら、世間の輩にはそう思わせておけ、というレトリックであり、「負けるが勝ち」、「名を捨てて実を取る」という処世術でもある。  その裏には、女性として本当に価値のある仕事とは、結婚・出産・子育てであり、女性が仕事でキャリアを積むのはその片手間に行うべきことだ、と日本社会がいまだにかたくなに思い込んでいるからであり、さらには、子どもを産まずに働きつづける女性を「女として不幸」な存在だと決めつけているからだ。  不幸で異端であると思われている彼女たちは、職場では自己達成感を味わい、友人に恵まれ、好きなものを食べ、好きな本を好きなだけ読み、好きな旅行に思う存分に出かける。  そうした自由な独身生活をいったん味わった女性たちにとって、結婚して家庭におさまるというのがどれだけ魅力にとぼしいかは想像に難くない。夫の収入に依存して、家事と育児に忙殺され、着ている服といえばGAPやユニクロといった手軽なものばかり。 「結婚しても、今より快適に暮らせるわけでもなさそう」(『負け犬の遠吠え』)ということは、自ら子育てを経験してみるまでもなく、自分の祖母や母親、先輩や友人の生活を見ているだけで、はっきりとわかるので、はじめから結婚に距離を置いているのが負け犬なのだ。  作者は、負け犬が子どもを産む手段として、未婚のままで子どもが産めればいい、と考えるが、 「結婚をせずに子供を産み育てる土壌は日本には存在しないので、子供の数も減るばかり」 だという。  そういった正当な社会批判を、〝負け犬の遠吠え〟と自虐的に呼ぶのは、男はその埒外に立ったままで、女こそは産み育てる性であり、少子化とは女性の問題なのだと決めつけている日本社会への痛烈な皮肉なのだ。また、社会の意識が変わらない限り、女性が進んで子どもを産むようにはならないという警告でもある。    本の執筆が終わり、ようやく周りを見渡すゆとりがでてくると、フランスは出生率が高く日本が脱少子化のモデルとしていることに気がついた。フランスでも戦後、女性の高学歴化が進み、「晩婚化」「晩産化」となり、それが少子化につながったところまでは日本と同じ。日本の違うのは、九〇年代半ばから、出生率が上がりつづけて二〇〇五年には1・95となったこと(対する日本は1・25)。  フランスでは現在、〝ミニ・ベビーブーム〟が到来しているといわれている。しかし、初婚年齢と出産年齢をみれば、日本よりフランスの方がわずかながらも高い。日本より、「晩婚」であり「晩産」でありながらも、フランスの出生率は2に手が届こうというのだ。  さらに細かく数字を見ていくと、フランスでは過去二〇年間、三〇代の女性が出産する比率が高まっており、それが全体の出生率を押し上げているのがわかる。しかもこの国で生まれる子どもの二人に一人は、未婚のカップルから生まれる。  負け犬の三つの条件のうち「三〇代」で「未婚」という二つの条件を備えているフランス人女性が、この国の出生率を牽引していることになる。しかもこの国では八割の女性が働いており、子どもが生まれたからという理由で、仕事を辞める女性は少数派に属する。  そういえば謙太郎の学校の友達であるジュリーのママは、三〇代後半で心臓専門の開業医だし、バディームのママは大学で政治学を教えている。マチルドのママは世界中のファッションショーを飛び回り最新の洋服を買いつけるバイヤーだ。ちょっと周りを見渡しただけでも、子育てとキャリアを両立させている女性には事欠かない。  パリで知り合った、自らも二人の子どもを育てている日本人女性は、 「女性が子どもを産んでも、それまでとほとんど変わらず生きていけるのがフランスなのよ」 と教えてくれた。  私がたまたま移り住んだフランスという国は、どうやら家族や子育てについて、日本とは大きく異なる考えを持つ国であるようだ。同じ資本主義体制でありながらも、家族を支援する政府や会社組織も、日本とは大きく違っているように見える。その違いはいったいどこからくるのだろうか。  私は次第に、少子化という問題とフランスという二つのフィルターを通して見えてくる日本社会の現状に強く惹きつけられていった。日本は、どこでどう間違ったのだろう。フランスを見ていると、出生率とは単に女性が産む子どもの数の多寡を表すのにとどまらず、社会がどれほど生きやすいのかを表す指標のようにも見えてくる。 (次回へつづく)
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